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2007年9月30日 (日)

もうひとつの導火線

ビルマ(ミャンマー)で軍がデモ隊に発砲し、多数の死者が出ました。一説には200人以上とのことですが、情報が遮断されているため確認が取れません。

まずは銃撃で亡くなられた長井健司さん(50)のご冥福をお祈りします。危険を顧ず報道に殉じたその姿勢は、ジャーナリスト魂そのものです。

 

さて、この話を聞いたときの第一勘は「あちゃー、こちらの導火線にも火がつきやがったか」ということです。

ビルマは軍事独裁政権であり、西側諸国から総スカンを食らう中で、中国との結びつきを強めています。特に重要なのは

  1. 中国が海軍基地を作っている
  2. 天然ガスを雲南省経由で送っている

ということです。

1はつまりインド洋への出口=中東の石油への近道ということですから、結局ビルマは中国のエネルギーを確保する上で重要な拠点ということです。

 

日本の報道は伝えてくれませんが、国際情勢は

中ロ vs 米英欧NATO

の対立が先鋭化しています。その表舞台は

  1. 朝鮮半島(6者協議、米日との国交回復)
  2. 台湾(国連加盟、独立宣言)

だけだと思っていたのですが、「そう言えばビルマもあったんだなあ」と再認識した次第です。

 

今の日本は安倍政権から福田政権に移り、中国側に少し傾いたと言われています(まだ判断はつかない)。さらに豪州の次期首相は超親中と言われています。

仮に日豪が側に付くのであれば、米国は太平洋を越えて中東の石油を運ぶことができません。日豪と米を戦わせている間に中国はビルマを通じて中東の石油や天然ガスを仕入れることができるわけです。

雲南省を通じると沿岸部に届けるまで大変そうですが、太平洋側に回ると米国海軍に潰されるかもしれませんので、裏口を作っておきたいんですな。中国がビルマ軍事政権を援助するのは、そういった理由からです。日豪が簡単に中国側に転ぶとは思わんですが、中国が描くベストシナリオのひとつではあろうと思います。

 

世界のメディアでは「自由のない独裁国家が、罪のない人々を虐殺した」とビルマ軍事政権を責めています。これはビルマ政府を責めているようでいて、実は中国の傷口に塩を塗りこんでいるんですな。

というのも、この事件は天安門事件を思い出させてしまうからです。自由を求めた学生たちを、戦車でひき潰したあの事件・・・。今のビルマ政府に勝るとも劣らぬ暴挙だったのですが、常任理事国であるがゆえに国連から非難されることも制裁されることもありませんでした。

その記憶とともに、中国政府は「民衆を撃ち殺す非道政府の黒幕」として糾弾されようとしています。まあ古い人間は、カンボジアのポルポト政権がやったこともついでに思い出しちゃいますけどね。あとはチベットの宗教弾圧やらいろいろと(笑)。

このように、国際社会がビルマを責め立てることは、間接的に中国を締め上げることになってしまうのです。

  

そんなわけで、朝鮮半島と台湾に次ぐ第三の導火線に火が着いた感じですね。僧侶のデモも実はCIAが糸を引いていたりして(笑)。

ともあれ、ビルマ情勢は要注目です!

水島ぁー! 一緒に日本に帰ろうー! 
    ↑
ビルマと言えばこれでしょう。いまだに「ミャンマー」と言われてもピンと来ないオヤジより。

2007年9月29日 (土)

興亡のサイクル(8) 戦争によって公共心が戻る?

  1. 国や会社に対して価値を作り出すことで生きている人々(価値創造系)
  2. 価値を奪うことで生きている人々(闘争・収奪系)

これらのどちらをDNAとして持つかで、そのグループの将来は変わってきます。

(2)の傾向が強い国(会社)は、時間が経つにつれてますます内部の収奪を強めていきます。余計なことを言う奴が出てこないように、言論や思想を厳しく統制します。その中で出世する人はやはり(2)の人々ですから、ますます統制は厳しく、ばかげたものになるという悪循環に嵌ります。行き着く先は独裁だとか、恐怖政治にならざるをえません。

その中にいる(1)の人々は、少数派になってもがんばってグループのために働きます。しかしひどい収奪に耐えられなくなったり、グループ自体が潰れたりして、自分を認めてくれる別のグループに移ることになります。会社を移ったり、移民したりということですね。
 
それに対し、もともと(1)の傾向が強い国(会社)は正反対の発展を遂げます。継続的に価値を作ることができるのでその群れは栄え、養うことが出来る人口も増えます。さらに(2)から逃げてきた人を受け入れることで、ますます強くなってゆきます。

○(1)価値創造系の人
●(2)闘争・収奪系の人

(価値組織) (収奪組織) 

●         ●
●○       ●●
○○○     ○○○
○○○○   ○○○○

↓ 適応・強化 ↓

●            ●
●●         ●●
○○○     ●●●
○○○○   ○○○○
○○○○○← 逃亡
 ↑         ↑
好循環で繁栄 悪循環で衰亡

 

結局、価値創造系の人々が繁栄すると。「正義は勝つ」ということですか。いやー、良かった良かった…って、そんなわけないでしょう!

 

収奪の方向に進化した組織は、もう内部で搾り取るものがありません。すると次に考えるのは、他の組織から奪い取ることです。他の収奪組織と血みどろの殺し合いをするより、ディフェンスの甘い価値組織から奪い取ったほうが効率的でしょう。

会社であれば「営業妨害する」「技術を盗む」「訴訟でいやがらせする」「M&Aで丸呑みしてしまう」などの方法が考えられます。それを続けると、収奪組織の支援を受けた会社でないとさんざん嫌がらせをされて潰れることになります。国であれば「武力で脅し取る」「産業スパイする」「悪口や訴訟で圧力をかける」「併合してしまう」という感じですね。

すると結局、世の中は収奪系の人ばかりになると。「憎まれっ子世に憚る」ということですか。いやー、良かった良かった…って、そんなわけないでしょう!

 
そこまで行ってしまうと。今度は振り子が逆の方向に戻ってきます。

もともと、収奪系の組織には論理やらルールといったものがないがしろにされる傾向があります。ということは科学や産業が発展するためのインフラが破壊されているということです。

国も会社もそんな状態である中で、価値を作る人々(1)を優遇し、自由に活動させる国や会社が登場したらどうなるか?

これは歴史上多くのサンプルがあります。たとえば織田信長は楽市楽座で産業を活性化し、鉄砲を導入することで戦争を効率化させました。いくら武田の騎馬軍団が精鋭であっても、鉄砲で武装した農民上がりの足軽に勝てなくなったのです。

これは何を意味しているかというと、「殺し合いのような極限状態になれば、価値を作る人々(1)を優遇したほうが勝つ」というセオリーなのです。

 

民主主義や自由主義経済は完全だとは思いませんが、少なくともそうでないグループと戦争するときに勝つ確率は高いです。その理由としては以下のことが考えられます。

  1.  収奪国家が勝っても庶民に良いことはないので、モチベーションが低い。それに対して価値創造国家はひとりひとりのモチベーションが高い。特に金持ちや知識層は独裁国家に負けると真っ先に粛清されるからもう必死(笑)。結果として最も能力の高い人々がフル稼働して悪知恵を働かせることになる。
  2.  収奪国家は生産性が低い。北の将軍様が考えた農法で大量の餓死者が出たり、毛沢東が雀を撲滅させようとしてイナゴが大発生し、数千万の死者を出した「大躍進政策」などが収奪系独裁国家の限界を示している。
     それに対して価値創造国家は前線で戦う人、武器を開発する人・作る人、その他生産活動をする人などが役割分担をしながら効率的に戦争を続けることが出来る。

民主国家と独裁国家が戦争すれば、民主国家が勝つ」という歴史のセオリーは、こんなところから来ているのかもしれません。

日本は明治維新の頃は価値を創りながら国を強くしてきました。しかし昭和に入って軍部の独裁が強くなった頃から方向性が狂い始め、ついには勝てるはずのない戦争を挑んで自滅しました。これもまた、歴史のセオリーどおりだったと思います。

戦争するときは国のありがたみが意識され、みな群れを守るために自分を犠牲にしても良いと考えるようになります。それができないと滅びてしまうわけですから当然ですね。生きるか死ぬかの瀬戸際になって、ようやく人々の心に公共心が戻ってくるということです。

 

こういった潮目の逆転は企業であれば30年、国や社会であれば60-70年おきに現れるような感じです。

このサイクルを乗り越えて再び繁栄することができるのか、それとも戦うことを忘れて滅んだカルタゴのように歴史に埋もれてしまうのか…結局は「自分たちの群れを守ることを忘れた人間は滅びるしかない」ということなのでしょうか。

2007年9月28日 (金)

興亡のサイクル(7) 組織興亡の一般理論

日本固有の問題にも触れましたが、再び「興亡サイクルの一般理論」に戻りましょう。

 

国や会社といった組織は、「ヒトの群れ」が自分自身を守ろうとするために作った集団です。なぜならばひとりひとりがバラバラでやるより会社を作って役割分担したほうが効率的に生産活動を行うことができますし、弱い個人がバラバラに外敵と戦うよりも集団で戦ったほうが有利だからです。

「うちのシマに手を出して見いや!おどれの組員皆殺しにしたるで!」

というぐらい脅し合い、力が均衡してはじめて群れの間の争いは減ります。力の均衡が崩れたら、強い群れが弱い群れを攻めて領土や利権を奪い取ります。

グループで結束してともに戦えない群れは滅び、子孫(会社)を残すことができません。それはサルなどの群れを見ればわかるように、適者生存による進化の産物です。

 

人間は友情だの親子愛だの愛社精神だの愛国心だの、それぞれ美しい名前でコーティングすることによって、グループの結束を賞賛します。しかし実際のところ、人間も他の動物とたいした違いはありません。外敵や人間同士の関係の中で、慈しみ、結束し、考え、争い、嘘をついたりそれを見破ったりしながら生き残って来ただけなのです。

こう考えると結局のところ、人間(あるいはある社会)にとっての美徳とは、「群れ」として生き残るために有利な特徴を後付けで説明しただけに過ぎないのかもしれませんね。

 

しかし社会が安定し、「群れ」として生き残ることがそれほど重視されなくなると、今度は個人が群れの掟に反して利益を追い求める余地が出てきます。

「そんなわがまま言うのやめようよ。国がなくなったり会社が潰れたら、自分たちも大損するよ」

などと考えてしまう人は、なかなか自分の幸せを掴むことができません。その結果、国や会社に貢献している人たちは少数派になってゆき、タカる人ばかりが増えてゆきます。

 

このことを説明するために、荒っぽいですが人間を2種類に分けてみましょう。

  1. 国や会社に対して価値を作り出すことで生きている人々(価値創造系)
  2. 価値を奪うことで生きている人々(闘争・収奪系)

両者が争った場合、(1)が勝つことはまずありません。なぜならむやみに争うよりも協力して価値を作ることが楽しいので、どうしても自分で方法や労力を制限するからです。

またこの人たちはものごとを長期的に考える傾向があるので、「結局は共倒れになる」という事態を恐れます。日本の場合は特に優れた歴史上の教材がたくさんあり、たとえば鎌倉幕府がなぜ源氏三代で終わってしまったのかを考えると「兄弟ゲンカは滅亡のもと」という教訓が得られます。したがってどうしても、(2)より先にチキンレースから降りることになるんですな。

 

それに対し、(2)の方はやりほうだいです。争ってばかりではお互いに打撃を受けるのですが、それに気づいていないのかもしれませんし、相手を譲歩させるためにお互いの利益を人質に取って脅しているのかもしれません。そもそも、変な公共心などを持っていては、激しい権力争いに負けてしまいます。

また(2)の人々は自分で価値を作ることができないことを知っているので、闘争・収奪のスキルを常に磨いています。仕事といえばそれしかないので、基本的にはヒマなのです。で、ありあまる時間を使って収奪を試みるわけです。

特に国内や社内で争った場合、勝負は見えています。つまり「意地が悪くてしつこい奴が勝つ」ということです。

それが長く続くと構成員もその環境に適応し始め、(2)ばかりが増えて(1)が減ってゆきます。それがモラルの低下や、衰退につながってゆくのではないか。そのサイクルは60-70年ぐらいで繰り返しているのではないかということです。

 

では、(1)の人たちはずーっと報われない人生を送るしかないのか?

・・・逆説的ですが、群れが存亡の危機にさらされないと、この流れを逆流させるのは難しいのかもしれません。つまり人々が「群れで活動することのありがたさ」を再認識するまでは、モラルの崩壊が止まる理由はなさそうだということです。

そして、その傾向に歯止めをかける最も顕著なターニングポイントは戦争や内乱ではないか? というのが、現在のところ有力と考えている仮説です。

(続く) 

2007年9月25日 (火)

興亡のサイクル(6) 世論はメディアが作る-衆愚から独裁へ

 

怪しい記憶で恐縮ですが、人間社会はもともと地縁・血縁に基づくゲマインシャフトであるが、近代社会になるにつれて利害関係に基づくゲゼルシャフトに移行するということをテンニースが言っていたと思います。

======== wikipedia からの抜粋ですみません========

  • (A)ゲマインシャフト 地縁や血縁で深く結びついた伝統的社会形態。人間関係が濃密。
  • (B)ゲゼルシャフト  近代国家や会社、大都市のように利害関係に基づいて人為的に作られた社会。人間関係が疎遠。

==================================================

めんどくさいので、地縁・血縁の共同体を(A)、利害に基づく機能性共同体を(B)と呼ぶことにしましょう。

(B)の重要度が高まるにつれ、みな地元(国)への関心が薄れて自分の稼ぎや地位が人生の目標となります。この傾向はおそらく、社会がより専門家・細分化されるにつれて顕著になるのでしょう。

しかしいくら他者に頼らずに生きていけるようになったといっても、人間が長年群れて生活していたという性質が急に変わるわけではありません。すると寂しくなった人間は他者とのつながりを模索しはじめます。他者と共通の考えや体験を共有し、群れに属することの安心感を得るのです。

ひとつの例ですが、いくら熟練して勝ち続けている個人投資家であっても、誰にも認められていないと感じると猛烈な孤独感から気が狂いそうになります。だから必要もないブログを始めたり、ときどき集まって酒を飲みながら投資談義を何時間も続けたりします。投資にパフォーマンスにとってはたぶんマイナスなんでしょうが、一人で儲けていても気が狂いそうなのでやっちゃうんです(笑)。

 

別に投資家でなくても、多くの日本人がこういった寂しさを味わっていると思います。
というのもここ10年で日本的経営が否定され、グローバリゼーション(=アメリカ的経営)の波が押し寄せたからです。

今にして思えば、いわゆる「日本的経営」は(A)と(B)の両方を担っていたような気がします。みんなでラジオ体操をしたり、社歌を歌ったり、家族総出で運動会に燃えたり…。

しかし「家族的なつながり」が否定されアメリカ式の経営が主流になると、こういった風潮は時代遅れとされました。すると(B)機能性共同体だけでは埋められない「ヒトの群れ」としての本能が、「他者との共感、所属することへの安心感・一体感」を求め始めたのではないかと思います。それが昨今のスピリチュアルブームの要因のひとつであるのではないかと。

アメリカ的経営と言えば、スペシャリストがもてはやされて、全体を見る人や調整役が軽視されるようになったのもひとつの特徴でしょうね。その結果としてコミュニケーション能力が不足したり、無用な衝突が増えるようになったと。ある程度の国際化は必要ですが、やはりどこかで歯止めをかけたり行き過ぎた振り子を戻さねばならんのでしょうな。

 

そして、こういった時代にはみなが自分の仕事や利益に熱中し、それ以外のことを他人任せにして「人生の効率」を上げようとします。

たとえば「自分で難しいことを考えたくはないが、誰かがうまく国を運営して欲しい」という気持ちが強まるわけです。そしてマスコミが情報を集め、分析して意見を言ってくれるため、それを自分の意見にして楽しちゃおうという風潮が強まります。

言うなれば情報収集をアウトソースしているわけですが、いつのまにか思考や意見ですらメディア任せになっていることになかなか気づきません。その結果、メディアに流される孤独な群衆が大量生産され、メディアが世論を操作することで政府を上回る権力を握ることになります。

 

もうひとつ、この現象を支えているのは「群集の孤独感」でしょう。

「違う意見を持っていても、自分はみんなから受け入れられている」という自信があれば「それは違うんじゃないか?」と気軽に言えます。しかし反対したら嫌われるのではないか、仲間はずれにされるのではないか」という気持ちがあると、どうしても付和雷同せざるをえません。「みんなと一緒じゃないと、明日はない」という恐怖感が、判断を狂わせてしまうのです。

このような流れで最近の政治を見ていると、「衆愚政治から独裁政治へ」というセオリーがあてはまっているなと感じます。

たとえば、小泉さんから安倍さん、そして今に至る自民党総裁選の流れをひと言で表現するなら「勝ち馬に乗れ!」です。政治哲学などは一切なく、「応援したからポストくれ」というだけのおねだり議員たちばかりです。

これは小選挙区によりわずかな得票差が圧倒的な議席差になってしまうため、人気のない党首を応援することは党や自分にとって致命的という構造要因があります。また政党助成金を執行部が握るようになったため、将来の主流派に逆らうと兵糧攻めにあうという恐怖感もあると思います。

しかしそんなに執行部の力が強くて逆らえないなら、国会議員は50人もいればいいと思いますけどね。いや、マジで。どうせ話し合いもなくて派閥の論理で決まるんでしょ?だったら議論するだけムダじゃないですか。マスコミの意見をすぐ反映できるように、国会をスリム化してスピードを上げたほうがいいと思いますよ(笑)。

 

冗談はさておき、安倍首相辞任から福田政権樹立の背景には、「マスコミに逆らったら潰される」という恐怖があったと思います。メディアが立法・行政・司法の三権を上回る「第一の権力」になったということです。

さらに今の選挙制度のもとでは、国会議員は執行部に逆らえない…これが進むと、いったいどうなってしまうか?

その答えはおそらく「独裁」です。

マスコミが第一の権力になれば、気に入らない政治家などを叩いてすぐやめさせるでしょうからなかなか政局が安定しません。マスコミ言いなりの政権ができて一瞬だけ安定するにしても、もっといいなりにさせようと面白がって叩くでしょうからやはり落ち着きません。そしてみんなが「やれやれ、やっと安定したなあ」と思ったときは、マスコミを黙らせるほどの独裁政権ができあがっているわけです。

独裁といっても、人間的な魅力を備えたカリスマによるのか、それとも暴力で強引に黙らせるのかの二種類があります。しかしどちらにしても、健全な民主主義からかけ離れた姿になることには変わりありません。

  1. マスメディアが気に入る政治家が政権を握る(マスメディア独裁)
  2. マスメディアを操る政治家が政権を握る(カリスマ独裁)
  3. マスメディアを黙らせる暴力で政権を握る(暴力独裁)

 

究極的に、言論の自由を守っているのは暴力です。

メディアが世論を作り上げて言論を制圧するようになったとき、権力(暴力)はそれに迎合するか、逆にメディアを押さえ込むしかありません。なぜならメディアは責任を持って政治をやるわけではないので、どうしても近視眼的になったり、矛盾したことを主張したりして国政が落ち着かないからです。そのうち民衆は、「どんな形でも良いから政治を安定させてくれ!」と望むようになります。

そこには、国が破綻するまで抜けられない「独裁政治の罠」が待ち受けています。

(続く)

2007年9月20日 (木)

興亡のサイクル(5)支配の正統性、アイデンティティのゆらぎ

さて、社会のサイクルを説明するため、七人の侍と村人たちがその後どうなったのかを勝手にシミュレーションしてみましょう。

************ 七人の侍、その後 ************

野武士を撃退した村は、平和を取り戻した。

決断を下した村長(むらおさ)やそれを手伝った幹部たちは大いに尊敬されるようになった。「働いてもどうせ野武士に奪われる」と諦めていた村人たちも、脅威が去ったことで生産意欲が上がった。彼らは戦いで荒れた田畑を修復し、さらに開墾を進めて豊かになっていった。

ときには水や土地のことで揉めることもあったが、村長や幹部が裁定して争いをおさめた。内輪もめして野武士につけこまれるよりはマシだったし、何よりも村長たちには「村を救った英雄」としての権威があったからだ。

「いつまた野武士がやってくるかもしれない」という恐怖が残っているため、自警団はそのまま残った。一緒に戦った侍たちは町に戻ったが、村人はいつでも助けてもらえるよう謝礼を払い続け、彼らが自由に村に逗留できる家も残した。戦死した侍と村人の墓は大切に守られ、年に一度は村長をはじめみなでお参りした。

・・・戦いが終わって、20年が過ぎた。
村長や幹部はすでにこの世になく、その子供たちが村の顔役となっていた。

かつての寒村はいまや大きな村になり、工業や商業を営むものも現れた。両替屋や問屋が突出して豊かになった。

村の顔役たちは基本的に農家だったので、豊かではなかった。しかしその中には両替屋や問屋と結託し、公金をくすねて甘い汁を吸う者が現れた。二代目村長はそれをとがめたが、カネになびく幹部や、村長側のみを攻撃する瓦版の前に苦戦している。何よりも二代目には先代ほどの実績や権威がないため、村人たちが言うことを聞かないのだ。それでも昔のことを覚えている村人が残っていたから、村長の権威はまだ保たれていた。

しかし村長が三代目になると、公然と攻撃する者たちが現れた。
「ボンボンのくせに、過分な椅子に座ってんじゃねえ」
「この平和な時代に自警団はもう時代遅れ。解体しろ!」
「何も生み出さない侍たちにいつまでムダ金を払うのか。さっさと手を切れ!」
「戦死した侍と村人の墓があるが、そこに村長がお参りすれば戦争賛美になる。平和なこの村にふさわしくない」

おかしなことを言う連中が瓦版の編集権を手にし、あの手この手で村長をひきずり下ろしにかかった。歴史的な経緯を知る者も、伝える者も少なくなり、村人はそれぞれの金儲けに熱中している。

みんな忙しいので瓦版の情報だけで判断し、今の村長の続投を望んでいないようだ。
今度の選挙では「野武士との対話」を掲げる自称平和主義者の村長が誕生するかもしれない。

村人のひとりであるあなたは、どちらに投票しようか迷っていた。

あなたの両親は保守的で歴史を教えてくれたので、瓦版の記事は一方的で信用できないと思っていたからだ。子供の頃から比べると、みんな好き勝手なことばかり言って妙な連中がはびこる世の中になったと思う。

そんなとき、ある幼なじみがこう言った。

「なあおまえ、堅苦しく考えんなよ。村長や侍は何の努力もしないで俺たちの年貢を奪っている寄生虫なんだよ。みんなそう言ってるんだから、従わないと損だよ」

あなたが考え込んでいると、彼はやおら声を潜めこう続けた。

「実はね、俺たちのバックには野武士軍団がついているのさ。これは秘密な。カタブツの侍たちと遊んでも面白くないが、彼らは酒や女で歓迎してくれるんだよな。で、うまく村長たちを追い出したら、俺を幹部に取り立ててくれるってさ」

あなたが驚いた顔をすると、彼はさらにたたみかけた。

「村のことなんざ誰も考えていないこのご時勢だ。俺たちを敵に回して報われない戦いを続けるか、それとも幹部に取り立てられて人生を楽しむか、答えは決まっているだろうがよ」

*******************************************

 

簡単に解説します。

村は戦いによって平和を取り戻したのですが、時間が経つにつれて別の問題が発生します。

 

まずひとつは「支配の正統性」が疑問視されるようになったことです。

初代の村長や幹部には、「野武士を撃退して村を守った」という実績があり権威がありました。たぶん事実に尾ひれがついて「神話」の主として崇められたことでしょう(笑)。

しかし時代が経つにつれて情勢は変わってきます。「一致団結して国を守った」という集団としての記憶は薄れ、それぞれの生活やビジネスが主な関心事となります。さらに他に力がある勢力(たとえばカネやメディア)が出てくると、必ずしも既存の支配層と利害が一致せず、内部で争いが起きる可能性があります。

この「支配の正統性」は、国という大きな「ヒトの群れ」をまとめる上で頭の痛い問題です。

たとえば中国共産党は「鬼畜ファシスト日本人を撃退し(ウソ)、混乱の大陸を統一(ホント)。戦勝国として国連常任理事国となり(ウソ)、核兵器を開発して(ホント)米露と対等に渡り合う超大国(希望)」という神話のもとに「だから我々がこの国の支配者なんですよ」というロジックで国をまとめています。

だから共産党は大戦中は逃げ回っていただとか、戦勝国で常任理事国は台湾(中華民国)だったでしょとか、SF講和条約にも参加させてもらってないくせにとか、国共内戦・大躍進・文化大革命・天安門事件で自国民を数千万人殺したよねにと言われるとツライ。ヒジョーにツライ。

支配の正統性が疑問視されるとただでさえバラバラになりやすい中華民族や少数民族が、いつものように軍閥に分かれて好き勝手してしまうからです。だから先手を取って「日本人に数千万人殺された」だとか、「台湾を国として認めない」とか、歴史を塗りつぶしながらウソを補うためのウソをつき続けなければならないわけです。いうなれば、「いまだ国造り神話を捏造中」ですな。ご苦労さま。

 

その点、日本は楽ですよお。

どんな国でも「支配者」と「神話」は結びついているんですが、国造り神話の血筋が支配者として現代にまで続いているのは日本の皇室だけです。憎まれ役を引き受けて責任を取るのは統治をアウトソースされた政府や幕府であり、それが潰れても日本の国家元首が天皇陛下であることは変わりません。これが国民の心のよりどころとなり、社会の安定性をもたらしています。一般的に立憲君主制(世襲の王様がいて、憲法によって制限される国)のほうが、共和制(大統領がいる国)よりも政治的安定度が高いことも以前書いたと思います。

(過去ログ)皇室-日本人が気付かないバリュー
http://wildinvestors.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_8ef5.html

逆に言うと、日本を滅ぼしたいと思ったら今の男系皇統を断絶させることが長期的に有効な戦略となるでしょう。正当な支配者の血筋が絶えてしまえば国民は精神的な拠り所を失い、支配者の地位を巡って争いが起きるからです。

そんなわけで、私は「女系天皇容認」を日本滅亡の工作とみなしています(笑)。

 

もうひとつは、「自分たちで村を守るのだ」という防衛意識が薄れてきたことです。

自分がやらなくても誰かがやるだろう(ソーシャルローフィング)、自分がやっても何も変わらない(政治的無関心:ポリティカルアパシー)という気分が蔓延し、そこに収奪者の手が伸びます。

野武士たちが武力で攻めてきたらまだ対処はできますが、巧妙に村を乗っ取られたり、意思決定を操作される諜略間接侵略に弱くなります。「村を守ってくれた人たちへの感謝」を村人が否定したら、村のために戦おうとする人間はいなくなります。侍と村人を分断する「平和主義者」の甘いささやきも危険なワナです。

そんなわけで、私は「靖国神社や自衛隊・米軍に対するいちゃもん」を日本滅亡の工作とみなしています(笑)。

 

そしておそらく、そういった時代には他者とのつながりが薄くなって、自己認識(アイデンティティ)が揺らぐんでしょうね。高度化した産業の中で歯車となり、社会との接点が薄れ、一種「根無し草」のような気分になってしまうかもしれません。

たとえば「自分探しの旅」「スピリチュアル」というのは、かつてあまり表に出てこなかった言葉でした。自分なら探さなくてもここにいたし、神社仏閣や山河森林は充分にスピリチュアルで、お年寄りや坊さんなどが物語を語り継いでくれました。テレビのカリスマなど必要としなかったのです。

多くの人は家族・学校・郷土・会社の中で暖かく育てられ、家族愛・愛校心・郷土愛・愛社精神…自分の居場所それぞれに愛着を持ち、その延長として愛国心がありました。

しかし今は愛国心・郷土愛など公の愛情が否定され、自己愛やせいぜい家族愛といったきわめて私的な愛情が過大に重視されています。一部の教師は国の権威を徹底的にバカにしながら、その一員である自分の権威は尊重してくれとわけのわからない教育をしています。

 

自分はいろんな人にかわいがられ、お世話になりながら育ったので、日本を嫌う人たちの気持ちはわかりません。イライラしたり情けなく思うことはあっても、どこまでも自分の祖国です。

しかしもしかしたら、「日本が嫌い」という人の深層心理は「自分が嫌い」というところから発しているのではないかと思っています。「日本が嫌い」という人たちには一度、こう聞いてみると面白いでしょう。

「日本は好き?」      →「キライ」
「地元は好き?」      →「キライ」
「学校は好き?」      →「キライ」
「家族は好き?」      →「うるさいなあ、もう」
「じゃあ、自分自身は?」 →「!!」

精神的に満たされない人は自分に価値がなく、どこからも受け入れられていないように感じ、社会を憎んでしまうのかもしれませんね。昔はどんな人でも受け入れられる場所があったのですが、それが失われつつあるということでしょうか。

さて、バラバラになりそうな人間の群れをつなぎとめ、内部崩壊に陥らないようにするには精神的・物的な拠り所が必要です。それは王様だったり、物語だったり、お祭りだったり・・・。さらに言うと、不安な時代にそれらを補って人々の心を満たすのは宗教やナショナリズムだったりします。

ただそれは内部崩壊の代わりに、集団狂気を導くこともあります。

(本業がおろそかになりそうなまでの熱を帯びながら、さらに続く)

2007年9月19日 (水)

興亡のサイクル(4) 収奪者から身を守る方法

ものすごいうろ覚えのまま再現する、映画「七人の侍」オープニング。

====================================
ある寒村で、農民たちが泣いている。

「ひえーん、ひえーん。また野武士たちがやってくるだよお」
「去年も麦を奪われ、娘っこを連れて行かれただ。せっかく立ち直ったのによ」
「またおとなしく差し出せば、殺されることはねえっぺ。ガマンするだよ」
「狼に足を差し出せば、次は腕をよこせと言われるだ。キリがねえっぺ」
「野武士は二度と来ないように皆突き殺すだ」
「おめ!そんなことして皆殺しにされたらどうする気だ!」
(喧嘩が始まる)

「村長(むらおさ)、どうすべえ?」
「…やるべし」
「!!」
「侍を探せえ。腹をすかせた侍をな」
====================================

 

映画ファンでなくともよく知られた、「七人の侍」(黒澤明監督)のオープニングです。

奪われるばかりだった百姓たちが村長の決断で団結し、村を守る努力が美しい映像で描かれています。あんまり書くとネタバレになるのですが、日本の危機ですから許してください。

この物語を「国や会社を収奪者から守る」の観点から描くとこうなります。

  • 価値創造技術しか持たず、闘争・収奪技術が弱くても、利害が一致する他の闘争集団と手を組むことで生き残ることができる
  • 弱者に思われている百姓だが、生産物・知識・情報を隠したりできるから意外としたたかだ。
  • 生き残った侍は最後に「結局勝ったのは農民」と言うが、これは「生産する人間がいなければ闘争・収奪技術も意味がない。生産する人間は自分の立場を理解してうまく立ち回ることで、闘争集団をコントロールして身を守ることができる」と解釈することができる。

これを今の日本になぞらえると、こうなります。

  • 闘争・収奪技術に興味がなく、強大な軍事力がなくとも、利害が一致する他の闘争集団(米軍・NATO)と手を組むことで日本は生き残ることができる
  • 弱者に思われている日本だが、生産物・知識・情報などを自分でコントロールできるようになれば相当したたかだ。
  • 「結局勝ったのは日本」という結果に持ってゆくためには、生産する人間がいなければ闘争・収奪技術も意味がないということを自覚し、他の闘争集団に影響を及ぼす意思を持つことである(その能力ならすでに充分持っているから)。

要するに、材料はすでに揃って自分の手にあるのだから、その価値を自覚して一方的に収奪されないように考えてくださいよということです。

 

紆余曲折を経ながらも、村は野武士軍団の撃退に成功します。戦いが終わってみな被害を受けたわけですが、いちばんマシだったのは農民、七人の侍は仲間を失い、野武士はほぼ全滅です。村にとってはまずハッピーエンドと言えるでしょう。

映画では、まず村長が「闘おう」と決断することから物語が始まりました。そこから自分たちに足りない「闘争技術」をどうやって補おうかと考え、失業していた腕の立つ侍を雇うことになりました。お互いの利害が一致したわけです。

しかし現実問題として、「みなで闘おう」というところにこぎつけるまでが大変だったりします。今の日本は「野武士に狙われている」という自覚がありません。村長をひきずりおろして自分がその椅子に座ろうとする人間や、野武士から賄賂をもらって村の情報を教えたりウソ情報を流して村を混乱させる人間ばかりです。

日米安保(=侍との契約)のおかげで野武士の収奪(中国・韓国・北朝鮮・ロシア)を最小限に留めているにもかかわらず、侍を追い出して野武士を招きいれようとする連中もいます。アメリカがいつでも正しいとは思いませんが、日本と利害が同じで、長い実績があることを認めようとしないんですな。

 

自分を守るのに一番確実なのは、自前の闘争集団を持つことです。農民であれば自前の軍隊を持つことでしょうし、日本であれば独自の外交と核武装などを進めることです。民間企業が経済団体を作って、政府に要望を出すのもこれに似ていますね。

もしそれが性格に合わないだとか時代にそぐわないのであれば、自分たちの価値生産技術を尊重して保護してくれる専門闘争集団に対し、利益と引き換えに保護を願い出ることです。農民と侍、日本と米軍、お店と暴力団などの関係がこれに当たります。賢い闘争集団であれば、価値生産技術を持つ人をいじめて自分の利得を減らすことは考えません。

しかし価値生産技術を持っている連中がアホだと、「誰に保護してもらうのがトクか」という判断を間違えることになります。農民が侍を追い出して野武士に搾取されたり、日本人が米軍を追い出して人民解放軍に粛清されたり、お店が任侠ヤクザを追い出して経済ヤクザに乗っ取られるといった場合です。

この判断を間違えてしまうと、後になっていくら優秀な侍を雇ってもムダです。「助けて下さいよお」と言われて前で戦うと、後ろから撃たれて死んでしまいます(ローマ戦争のハンニバル状態)。そんなアホウのためには、部外者はおろか内部の者も闘おうとしません。その結果、国が滅んでしまうのです。

 

賢い人々は、そんな状態になる前に団結して対策を考えます。

野武士と通じている者がいればまずは締め上げて白状させ、できれば相手側にウソの情報(ディスインフォメーション)を流して混乱させます。村を売ることのペナルティをたっぷり課して、誰も裏切らない体制を作るでしょう。独裁国家であれ民主国家であれ、国を守るというのはそういうことです。

ただし村人全員に「このままでは先がない」という共通認識がないと、こういった対策を打つのが難しいことも事実です。裏切り者を締め上げると「体罰反対!」「プライバシーの侵害だ!」「犯罪者にも人権はある!」「軍靴の足音がああ!」とうるさい人たちが邪魔するからです。その結果、対策は遅れに遅れ、国がなくなることもあります。

(続く)

2007年9月18日 (火)

興亡のサイクル(3) 「闘争技術」「価値創造技術」、そして「既得権」

2007年8月1日の日経新聞「経済教室」で、小林慶一郎さんがこんなことを書いていました。

経済活動には新しい価値を創造する「生産技術」と、すでにある価値を奪い取る「闘争技術」がある。このように分けて考えると、問題点がわかりやすくなる。(by ジャック・ハーシュライファー教授)

その記事は格差是正が本題だったのでここでは深く立ち入りませんが、闘争技術に資源を投入することは成長を阻害し、人々は格差への不公平感をつのらせるようになるということを切り口にしていました。同じ記事で感動した方もけっこういらっしゃるようですので、勝手にリンクします。

紅(くれない)日記 http://d.hatena.ne.jp/asdfge/20070801/p1
伊藤洋一公式サイト Ycaster 2.0 http://arfaetha.jp/ycaster/diary/post_146.html

 

今回のお題「興亡のサイクル」は、ここから自分なりに思考を広げていった仮説です。つまり社会が安定し豊かになるほど、内紛が激化して外敵に対して弱くなるのではないか。その現象には各文化で特徴的な部分と、共通の部分があり、歴史の必然として避けられないこともあるのではないかということです(すでに誰かが言っていることかもしれませんが、そうであればぜひとも教えてください)。

では、用語を再定義してからこの仮説のアウトラインを述べようと思います。

価値生産技術 = 新しい価値を生産し、人々の生活を豊かにしたり、便利にしたりする技術。ただの「生産技術」では意味が広すぎるので、「闘争技術」との対比でこう表現した。

闘争・収奪技術 = それ自体は新しい価値を生まないが、自分が生み出した価値を守ったり、他者から奪ったりする技術。

  1. 「闘争・収奪技術」は「価値創造技術」と相反するものではなく、相互補完的なものである。というのも自分が価値を創造して得たものを奪われないためには戦わなくてはならないし、自分が価値を創造できないのであれば他者から奪うしかないから。これらはもともと個人の生存本能に根ざしているので、誰でも両方の技術を持ち合わせている。時代や状況によってバランスが変わるだけ。
  2. 人間の群れがある程度大きくなると、今度は共通の利益を守るための「専門闘争集団」が自然に発生する。外敵と戦い、内部の争いを減らして共通の利益を追い求める役割がある。各国の政府、会社の経営陣、軍人・武士などはこうして始まったものであり、「専門価値創造集団」などと役割分担することで集団が繁栄しやすくなる。各個人はそれぞれの専門的領域に特化することで、利益を得る。
  3. しかし平和な時代が長く続くと、集団の「共通の利益」に対する認識が薄くなる。国や会社をつくりあげたカリスマがいなくなると、それぞれの集団が組織防衛の観点からそれぞれの利益を主張し始める。組織内組織が乱立し、内乱のような状態になるということ。
  4. 軍隊や諜報組織は自分では価値を作れないので、内部から軽んじられるようになる。予算も削られ、優秀な人材を確保するのに苦労する。対策としては仮想敵を常に用意しておいたり、ときにはわざと戦争を起こしたりもする。
  5. また社会が高度に分業化されると、生産技術よりも闘争技術のほうが手っ取り早く儲けることができるようになる。たとえば企業を訴えることで何億のカネが手に入るのであれば、働くことがアホらしく思える。その結果、科学的な思考やプロセスを磨くよりも、プロパガンダや印象操作などに熱を入れたほうが報われる世の中になる。
  6. みんなが「闘争収奪技術」に力を入れ、「価値創造」がおろそかになるため、その集団は長期的に衰退する。全体のパイが減っている中で、自分だけの取り分は守ろうとさらに闘争・収奪を激化させるという悪循環にはまる。
  7. 「自分が経営をしなくても、誰かがやっているだろう」「自分がやらなくても、誰かが国を支えてくれるだろう」といった他力本願が蔓延する。一部の人間が懸命に支えたところで、評価する人も少人数でしかない(笑)。結局、既得権を守ろうとする闘争集団にやられてしまう。(←今の日本はここ)
  8. 国や会社が目に見えて衰退し、「あれ、このままだと俺まで大損するんじゃね?」とアホでも気付くようになってから、ようやく共同体としての軌道修正が行われる。逆に言うとそこまで落ちないと、衰退傾向に歯止めがかからないということ。そこから復活するか、滅亡するかは努力次第(笑)。

 

補足しましょう。

「闘争・略奪技術」というと物騒ですが、誰でも持っている技術です。母親が赤ちゃんにミルクをやっていると、その上の子供が「ボクもボクもー」と甘えてきます。父ちゃんが他の女にプレゼントをやっていることがバレると、面白くない奥さんは夕飯としてどんぶり一杯のカール(by 森永製菓)を出して「兵糧攻め」にします。ともに自分に対する愛情や資源を確保しようとする「闘争・略奪技術」であり、子供のうちから誰でも無意識のうちにやっているんです。

しかし人々が集まって生活するうちに、役割分担しようという話が出てきます。屈強な男たちが闘争・略奪技術を持つ専門集団(=軍隊)を作って外敵に備える一方、集団内での争いを調停しようということです。そして他の男は狩猟や農作業などを行い、女たちも生産活動や子育てなどそれぞれの「価値創造集団」に属して集団に貢献します。そのほうがおそらく女子供にまで戦わせる村や、屈強な男までもが子育てに忙しくて武芸を磨く暇がない村よりも強いのでしょう。今では人口の多い先進国はほとんど志願制の軍隊になっているのは、その影響と思われます。

しかしそれで平和が長く保たれ、社会が安定して豊かになってくると、「そもそもどうしてこんな仕組みができあがったのか?」という意識が失われます。つまり「共通の利益を守るために役割分担しているのだ」というところから「いかに自分の利権集団のために利益を奪ってくるか」ということにフォーカスしてしまうのです。経営者たちは派閥に分かれて主導権を握ろうと争い、従業員は会社の価値を自分たちのほうに持ってこようと組合を作って闘争を始めます。お互いに「利害が一致しているライン」で闘争が踏みとどまれば良いのですが、こういった対立はしばしばエスカレートして会社を破綻に導きます。

こういう時代には、軍隊などは大変です。「自衛隊は人殺し!」「武器を捨てたら攻められない。だから武器を捨てよう!(ただし日本だけ)」という人たちが湧いて来るからです。建国の英雄が元気であれば「おまえらバカじゃねえのか!国がなくなりゃ自由も年金もなくなるぞ!」で済む話ですが、平和な時代にはいろんな人の声に耳を傾けなければなりません(笑)。むしろ「価値創造」に忙しい人はそんなにヒマじゃないですから、ちょっと極端でおかしい人たちの声だけが大きくなったりします

軍隊は軍隊で大変です。仮想的を作って煽ったり、なんやかんやと自分たちの利権を守るべく画策します。軍隊がなくなってしまうことは国がなくなるのとほぼイコールですから、彼らの危機感は相当なものです。また貧しい国では軍隊の給料も名誉も平均より高いですが、豊かな国では逆になります。すると人材が集まらなかったり、敵国に買収されたりして、いっそう弱体化が進みます。しかし逆に軍隊の力が大きくなりすぎると今度は組織維持のために不要な戦争を起こしたりしますから、難しいですよね。

もともと日本政府は日本人の既得権を守るための専門闘争集団です。公務員の方々は自分で公僕などと言って謙遜しておりますが、甘く見てはいけません。彼らはアメリカ組直系の経済ヤ○ザ(武闘派ではない)、日の丸組の直参です。上から「カタギには手を出すな」と言われて腰を低くしているだけなんです。我々もその恩恵に預かっている構成員ですから対立する理由はないのですが、それを忘れて政府叩きに熱中してしまう人もいるんですよね。

 

さて、軍隊以外にも闘争的な色彩が強い職業があります。たとえば弁護士などです。マスコミや金融・投資にもそういう面はありますね(私もその一員ですが)。これらは人々の権利や財産を守る職業である反面、それを濫用することによって他人が生み出した価値を効率良く奪うことも可能な職業です。

これらのほとんどに国家による資格やら規制があるのは面白いですよね。力のある闘争集団が国と対立しすぎるとしっちゃかめっちゃかになりますから、あらかじめ首輪をつけているのでしょう。この枠を外れるとヤミ金だとか、詐欺師だとか、ブラックジャーナリズムと呼ばれます。

さて、豊かな社会ではこういった「闘争的色彩」のある職業のほうが、純粋に付加価値を作る職業よりも儲かったりします。先ほど挙げたような弁護士、マスコミ、金融投資系、同列にすると申し訳ないでしょうが暴力団もそうですね。そういった傾向がエスカレートすると、科学的な思考やプロセスを磨くよりも、ハードな暴力・プロパガンダ・印象操作による工作に熱を入れたほうが報われる世の中になります。

 

このあたりの仮説には異論もあるでしょうが、本題に近づくために続けましょう。

一般的に日本人は「価値創造技術」を得意とする一方で、「闘争・略奪技術」には長けていないと言えるでしょう。製造業がすばらしい製品を生み出しているのに対して、政治的にはいつも譲歩させられたり、カネを巻き上げられてやられっぱなしです。イランの油田を放棄させられたと思ったら他国の企業がちゃっかりそれを取得していたり、カネや技術を供与してシベリアを開発したのに、「環境問題が片付かない!」と難癖つけられて権益の一部を放棄させられたりします。スポーツにおいても不可解な判定で勝てなかったり、日本が勝ちすぎるとルールを変えられることの繰り返しで、なかなか突き抜けることができません。

これは日本の強みでもあり、弱みでもあると思います。というのも価値創造の能力があるのであれば、闘争・収奪技術を磨く必要はないからです。自分で光合成ができる植物は他の植動物を食い物にする必要はありません。それができない生物たちが、他の動植物を食べるスキルを必要とするのです。

 

「しかしいくらなんでもやられすぎだろう。自国民を拉致されたり、竹島や油田を取られても土下座しながらさらにカネや技術を差し出すなんて、ハードMじゃないの?」

という疑問もあるでしょう。なぜかなあと考えたところ、こう思い立ちました。

  1. 日本は価値生産技術が社会的美徳と強く結びついており、闘争技術は評価されない。あるいは憎まれると言ってもよい。
  2. だから金融・投資技術は発達しないし(泣)、訴訟社会にもなりにくい。
  3. 根底には「相手の言うことを信頼して自分の判断を委譲し、自分の仕事に集中する」という高信頼社会がある。
  4. だから仲間として内側に入り込み、内部からの収奪に集中する人々にはメチャクチャ弱い

こういった背景があるのではないかと思います。

 

しかしいくら日本人が価値生産技術に優れていても、ある程度の闘争技術を持たないと自分たちが生産した価値を守れないことも事実です。自分たちがそれに気付いて手を打たないと、自分の既得権しか考えない人たちに内部から潰されてしまうからです。

また中国・韓国・北朝鮮などの儒教国家は、日本と対極にある専門闘争集団です。自力では鉄道もロケットも核弾頭もイージス艦もステルス機も作れませんが、すぐ近くに機密だだ漏れのお気楽国家があるために、その国の政治家や財界人を買収したりハニートラップにかけたりすることで収奪のスキルを高めています。

儒教国家では自分のほうが相手より格上であることを示すために、格下と思われている国(人)に競って無理難題を吹っかけるという傾向があります。この場合は中国・韓国・北朝鮮がそれぞれ自分のほうが偉いのだと証明するために、競って日本から収奪を行うということです。譲歩や話し合いで何とかなる相手ではありません。

 

では、相手と戦うことにあまり興味がなく、収奪にエクスタシーを感じない日本人はどうやってわが身を守ればいいのでしょうか。そのヒントは映画「七人の侍」にあると考えています。

(ものすごい長編になりそうな気がしつつ、さらに続く)

2007年9月15日 (土)

興亡のサイクル(2) 国や会社の末期症状

 

この問題は深いなあ…と考えているうちに、さらに考えされられる問題が発生しました。安倍首相の突然の辞任と、その後継を巡る自民党の動きです。

それに先立ちまして、まず安倍首相には「お疲れ様」と言いたいです。数々のタブーと戦い、内外の敵から足を引っ張られながら多くの重要法案を通した濃密な1年間。中韓にすり寄ったり靖国で妥協して問題を再燃させたり、「おまえ本当に保守派のプリンスかよ」と不満を抱くことはありましたが、外交や法律の面ではよく戦ってくれました。

それらの功績を「なかったこと」にして、二度と立ち上がれないようにしたい人は多いかもしれませんが、政治家としての甘さも含めて私は忘れません。まずはじっくり休んでもらえたらと思います。

 

さて、辞任の理由についてはいろいろ憶測が飛び交っています。

  1. ブッシュに北朝鮮との国交回復を通達された
  2. 週刊誌のスキャンダル記事(教祖のご託宣で大臣を選んでいる、相続税を脱税)
  3. 麻生、与謝野に裏切られ実権を奪われたことを恨んでの自爆

3.については「安倍・麻生包囲網」の人たちが昔から練ってきたシナリオでしょうからにわかに信じるわけには行きません。分裂させるための情報工作の可能性があります。
誰とは言いませんが、1年前に安倍さんの人気に恐れをなして心にもない「安倍支持」を打ち出し、裏から足を引っ張り続けてきた人でしょう。今頃うれしそうに福田さんを担ぎ出しているかもしれません。

 

今回の総裁選ですが、私はキャラクター的には麻生さんが好きです。自分の言葉で政策を語り、義理人情に厚くて不利な戦いでも挑んでゆく不器用そうなところも好きです。これは自分のイメージであって、本当はどうだかわかりませんけどね。

福田さんについては、政策や哲学についてあまり聞いたことがないのでなじみがありません。しかしこれは悪いことではなく、後述するように衰退しつつある社会では「敵がいない」「主張がはっきりしない」「弱点がわからない」ことが大きな力になることがあります

福田さんは世間的には「親中派」とされています。中国共産党が期待する日本の政治家第2位だとか、拉致問題に関して家族会に冷たいとかいう話はあります。しかし週刊アカシックレコードによると「中朝戦争容認派」だということ。それに対して安倍さんは「反対派」なので集中砲火を喰らって沈むだろうと。真偽のほどはわかりませんが、今のところその予想に近い線で動いてるように見えますね。

しかし私は米民主党が「二虎競食の計」を使えるほど国際情勢が見えているとも思えません(国防総省なら理解できる)。また仮にそれを狙ったとしても日本の外交能力のなさから自衛隊が朝鮮半島に狩り出され、バタバタ死ぬのではないかと危惧しています。半島や満州にかかわることで日本人が血を流すことに対し、非常な警戒感を抱いているんです。何といっても年金問題に怒った国民が、自治労の議員を大量に当選させてしまう国です。今の日本が使える技ではないでしょう。

そうは言っても福田さんも海洋派(町村派=清和会)ですから、独自のカラーを出し始めたらどうなるかわかりません。意外とマスコミの期待を裏切って、「フフン」とか言いながら小泉さんみたいに長期政権になったりして(笑)。

 

さて、話を本題に戻しましょう。

この件で、「こりゃあ末期だな」と思ったのは自民党の多くの派閥・議員の行動です。

つい一年前までは安倍さんなら選挙に勝てると雪崩を打って「安倍支持」に回り、ポストの見返りがあるだろうと期待。思惑が外れるとマスコミなどに情報を横流ししていっせいにバッシング。自分たちが選んだリーダーをサポートしようともせず、国外にまで悪口を言いまくる始末でした。

さんざんいじめまくった安倍さんが倒れると、次は福田さんが優勢だからと支持に回って「主流派」になりたがる。そこに政策や哲学はなく、「主流派でいたい。権力を握りたい」という私欲だけで動いています

次の総裁が麻生さんであれ福田さんであれ、そういった人々は風が吹いた方向へなびくだけ。新しい総裁が倒れたら、また次の「勝ちそうな候補」に尻尾を振るのでしょう。そんな人たちがこの国を動かしているのかと思うと戦慄します。

 

会社にたとえるなら、こんな感じになるでしょうか。

顧客や社員のことを考えていない経営者たちはいつも仲間割れをしている。1年前まで「社長ぉー。一生ついて行きますよ」と言っていた自称安倍派の専務や常務は、実はあちこちで社長の悪口を言いまくり、内部情報を社外に流して足を引っ張っていた。

そして会社がシェアを落とし、社長が過労で倒れるや否や、経営者たちは次の社長候補に対し「われこそは元祖福田派なり!」とこぞって支持を表明した。なぜかと言えば「勝ち馬に乗りたいから」。

・・・こんな会社には絶対投資したくありませんよね。
おまえらは経営もせずになにをやっているんだと。
まずは今の社長を支え、そうでなくとも会社の行く末を考えてビジョンを戦わせろよと。投資家ならこう考えます。

逆にライバル会社がこんなだったらアホだったら笑いが止まりません。ニヤニヤしながら弱ってゆくのを観察し、ときどき内紛を煽って楽しんでみたりして(←いじわる)。しかし外部の敵がまったく視野になく、顧客や従業員のことも考えないアホ会社は、潰れて当然だと思います。歴史をひもといても、内紛で消滅してしまった国は枚挙に暇がありません。

 
 
また、今回の総裁選は青少年の教育にも良くないと思いますよ。

「いじめは良くない!」と言っている有識者や政治家たちが同じ口で安倍さんをいじめまくり、関係ないことまで安倍さんのせいにして選挙でノーを突きつけたわけです。彼が理想的な政治家ではなかったにしても、自分たちで選んだんだからあんたがたが大好きな「任命者責任」(笑)とやらがあるでしょう。みんなのために働いてくれた人に対してそんな仕打ちをしていたら、まともな人間は政治家になりたがらなくなってしまいます

今の自民党議員たちは、「世の中で大切なのはビジョンやサービスではない。いかに相手を陥れ、弱ったものを叩き、勝ち馬に乗るかだ」という価値観を日本中に植えつけています。野党は昔からそういった傾向がありましたが、もはや自民も同じぐらい末期的ですよね。それを国民の代表である国会議員たちがテレビで毎日やっているのですから、これ以上ネガティブな教育はありません。

 

ただ、実はこういった現象は世界共通なのではないかと考えるようになってきました。どこでも平和で豊かな時代が続くほど民衆・政治家ともに質が下がり、社会全体の統治能力が下がってしまうのではないかと。

その行き着く先は滅亡だったり復活だったりするわけですが、その前に「不安感の蔓延」「公共心の崩壊」「ファシズム・宗教の流行」「戦争(内戦)」などの岐路が待っており、その対応によって結末が変わってくるのではないかと感じています。

(続く)

2007年9月 3日 (月)

興亡のサイクル(1) 「社会規範の崩壊」

最近考えているテーマに、「なぜ国や会社は衰退し、滅びるのか?」ということがあります。

どうしてそんなことが気になるかというと、日本にしても他国にしても「国が衰退したり、滅ぶ前はこんな状態なんだろうな」という事件が増えているからです。 また東アジアで戦争があってもおかしくないような国際情勢ですから、歴史の循環性についてもう一度整理してみたいと思っているからです。

これだけでは何を言っているのかわからないと思いますので、順に説明しましょう。

 

たとえば日本で最近起こった犯罪を見ると、昔であれば信じられない怖い話が毎日のように出てきます。ネットで知り合った集団が見知らぬ女性を殺しただとか、子供を車内に放置して死なせたとか、現役の警察官が女性をストーキングして射殺したという話もありましたね。

ある人に言わせると、こういった事件が起こるのは「社会が悪いのであって、犯人に罪はない」そうです。私は犯人に罪があると思っていますが(笑)、それだけでは根本的な解決にならないのでもう少し踏み込んで考えてみましょう。

こういった犯罪が増えてきた理由について、ざっと考えつくのは以下のようなことでしょうか。

  1. 加害者は「人権」によって守られる。人を殺すなどして前科が付いても、人生において大きなペナルティにならない。
  2. 「本当の被害者」はやられ損。犯人たちはすぐに出所してきて復讐することができる。国は守ってくれない。
  3. 見知らぬ他人がやられているところを見つけて助けても、それで報われそうにない。もめごとを起こすと出世に響くし、ほかの人も協力してくれない。

 

これをさらに深く考えると、一方の主張ばかりがメディアで強く主張され、反対側は無視される傾向が強いという問題に突き当たります。たとえば「加害者にも人権はある!」という主張に対し、「被害者の人権が踏みにじられたんですけど、それは守ってもらえないんですか?」という反論は許されません。

そうなる原因について、マスコミにある種の考えを持った人たちが増えて、他の考えをする人が駆逐されたということがあるでしょう。また他の業種にも通じることですが、仕事が細分化・専門化されて全体を多角的に見る人が減ってしまったことだとか、寡占化・系列化によって多様性が失われるという現象もあるでしょう。

あるいはもっと根本的に、「誰が善玉で誰が悪玉かは、マスコミが決める」という問題もあるかもしれませんね。たとえば村上世彰さんはマスコミによって「悪玉」とされていますが、投資のプロの間では同情的な声が多いです。彼の功績に対するプラスの評価が厳然とあって、その上で「方法がうまくなかったか」「やりすぎ、目立ちすぎ」という批判があるぐらいです。

 

別の例として「学校崩壊」という現象があります。

授業中に一部の子供が騒いで勉強が進まないとか、親が給食費を払わないだとか、「うちの子を主役にさせろ!」と学校にねじ込んで来るだとか、生徒が殴った先生がクビになるとか、自分が学校にいた頃には全く想像もできなかったことで現場の先生が苦労しているようです。

普通に考えると、それらの行動は合理的ではありません。自分だけが得したように見えても、教育環境が破壊されることでどの生徒(家庭)も大損することになるからです。

  1. それぞれの親が言いたいことを言えば授業が成り立たず、生徒の自主性も育たない。学校教育は現場に任せるべし。
  2. みんなでコストを分担しないと学校が成り立たない。無駄な交渉や摩擦を避けるためには、ルール通りの費用を払えば良い。
  3. 基本的に子供は自分たちを教育することはできない。先生が「体罰やむなし」と判断したのであれば、それは仕方のないこと。ひどい先生がいるなら、そのときこそ親が学校に言うべき。
  4. 学校側も「うるさい親」ばかりの言うことばかりを聞かず、大多数の「良心的な親」のことを考えて毅然とした対応をすべし。

私ならこのように考えるんですけど、もしも学校が荒れて子供が勉強できないのであれば、もっとマシな学校を探してそこに入れることになります。

一方で学校に怒鳴り込んでくる親は、自分がそうすることによってみんなが損をするなどと考えたこともないでしょう。強く言えば主張が通ると思って、わがままを繰り返すだけです。その結果、道理のわからないモンスターペアレンツたちの濃度が高まり、どうしようもない学校がますますどうしようもなくなってゆくのです。

 

こういった困った現象を一般化すると、「社会規範(モラル・公の意識)の崩壊」とでも言うのでしょうか。要するに「自分が良ければあとはどうでもいい」と考える人が増えたことで、みんな共同で維持していた人生の大きなインフラを破壊してしまうということです。 

社会規範の崩壊に瀕しているのは、日本だけではないように見えます。たとえばアメリカでもハリケーン後の町で略奪が起こったりしています。フランスでも、サルコジ氏が大統領になったからと暴動がありましたね。勢いがあるように見える支那でさえ、年間10万件とも言われている暴動に手を焼いているようです。

こういった事件は今までもあったでしょうし、自分が気にしていなかっただけなのかもしれません。また国家組織はかなりグダグダでも続くものですので、世界の終わりが来るのだろうと深刻に心配しているわけではありません。

しかし自由主義国家であれ独裁主義国家であれ、どの国も「それぞれの社会のしくみが壊れつつあるよな」と感じています。もっと言うと、「ヒトの群れとして健全な姿ではなく、狂ってるんじゃない?」ということです。

 

こういった状況はどうすれば解決できるのかというと、おそらく「アホでもヤバイとわかる状況にならないと、改善しない」のではないでしょうか。なぜなら「みんなで社会を守っていこうよ」と考える人がある程度いるうちは彼らのおかげで国や会社がちゃんと回るからです。

そういった人たちが自分を犠牲にして公に尽くしているうちはいいのですが、いつかは彼らも力尽きます(笑)。そうなるとこれまでぶら下がっていた人たちも立ち行かなくなって、潰れるか改革するかの決断を迫られます。そうなってはじめて、そういった規範が守られるようになるのかなと。

おそらく歴史にはそういったサイクルがあり、隆盛や衰退・滅亡を繰り返すのではないかと思います。栄える国があれば滅ぶ国もあり、大きくなる企業もあれば倒産する企業もあります。

「歴史には60年サイクルがある」という説について、これまで直感的に正しいのではないかと思っていました。今回はそれを体系的に整理してみたいと考えています。

(続く)

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